「天国に三人の責任をもって証言する証言がいる:父、言葉、聖霊 魂;
これら三つは一つです」  ヨハネの手紙第一 5:7


聖書はバプテスマ(洗礼)についてどのように伝えているのでしょうか

バプテスマ
バプテスマは、イエス・キリストへの信仰を証しする素晴しい機会を授けます。以下に伝える情報は、聖書がバプテスマについて、その手順について述べるとともに、何を伝えねばならないかを理解する一助として提供されるものです。

なぜ、バプテスマを受けねばならないのでしょうか
私たちがバプテスマを受けるのは、主イエス・キリストがそれを命じたからです。イエス・キリストの言葉をよく考えてみましょう。

マタイの福音書28:19-20
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、精霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

マタイは主イエス・キリストが天に召される前に、イエスの最後の明確な教えとしてこれらの言葉を書き留めています。本章は私達の伝導の努力の基礎となるものであるためグレイトコミッションと呼ばれています。しかし、『行く』ことがグレイトコミッションの一部であり、また弟子たちもグレイトコミッションの一部であり、宣べ伝えることもグレイトコミッションの一部であるならば、バプテスマもまた、グレイトコミッションの一部であるのです。

論理的な展開に注目してください。私たちは行って、福音を宣べ伝えます。私たちの証しのなかで、私たちは弟子をつくります。私たちはこの弟子たちにバプテスマを授け、弟子たちが主イエス・キリストの言葉に従うようにします。バプテスマは教会に対してイエスが命じたことの一部であり、一包みなのです。

バプテスマとは何を意味するのでしょうか
バプテスマという言葉の意味を一つの言葉に煎じ詰めることができれば、それがバプテスマを証明するものと言えるでしょう。バプテスマは一義的には主イエス・キリストとの個人的な、公の目にするところでの帰属の証しです。
…それは、私たちがこれまでの罪人としての暮らしから、主イエス・キリストを救い主として受け入れる新しい暮らしの始まりに変わることを意味するのです。
…それは、主イエス・キリストの死、埋葬、そして復活を公に証しすることを意味するのです。
…それは、主イエス・キリストを信じる人々の集まりに公に加わることを意味するのです。

バプテスマを受けると、視覚的に事実上福音を宣言したことになります。
バプテスマを受けるため水に浸かって待っているとき、主イエス・キリストが十字架の上で亡くなったことを象徴します。
水のなかに浸かるとき、主イエス・キリストが十字架の上で亡くなったことを象徴します。
水面の下に浸かるとき、主イエス・キリストが墓に埋葬されたことを象徴します。
水面から引き揚げられたとき、主イエス・キリストが死から蘇ったことを象徴します。
主イエス・キリストとともに、新しい命を授けられたのです。

つまり、バプテスマを受けると、言葉を用いることなく、福音を宣言したこととなるのです。

どのようなかたちでバプテスマを行うべきでしょうか
クリスチャンの歴史のなかで、三つの主要なかたちのバプテスマが執り行われてきました。水をまく、水を注ぐ、そして水に浸すことです。

バプテスマはギリシャ語“baptize”を翻訳したものです。今日もっとも広く用いられている専門辞書によれば、主な意味は「浸す、押し入れる、沈める」です。その次の意味は「影響下に置く」とあります。Merril Tenney博士は「洗濯のようなものが示唆される一節のような、ある一定の例外を斟酌したのち、語源上の意味の示すところでは、バプテスマは本来水に浸けるかたちで行われるものでした」(基本的なクリスチャンの教理;257頁)

新約聖書の簡単な研究では、次のような興味深い事実が明らかとなっています。
…バプテスマには水が必要となる(マタイの福音書3:11)
…バプテスマにはたくさんの水が必要となる(ヨハネの福音書3:23)
…バプテスマには水に浸けることが必要となる(使徒の働き8:30)
…バプテスマには水から引き揚げることが必要となる(マタイの福音書3:16; 使徒の働き8:39)

教会の歴史の信仰の証しは、水に浸して行うかたちのバプテスマは、まさに初期の教会で執り行われていたかたちのバプテスマです。

新約聖書以外で最もはやくバプテスマについて言及したものは、ディダケーに見ることができます。ここで、初期の教会ではバプテスマが父、子、そして聖なる御霊の名において水に浸けるかたちで行われていたということが明確に残されています(キリスト教教会の新国際辞書100頁)。

やはり、私たちは水に浸けるかたちでのバプテスマが唯一認められるバプテスマであると確信します。最終的には、バプテスマを授けるとは本当は「水に浸ける」ことを意味します。水に全身を浸けることは、主イエス・キリストとの完全な合一を果たしたことを象徴するのです。したがって、水に浸けるかたちのバプテスマは、グレース・コミュニティ・バイブル・チャーチ宇都宮での唯一のバプテスマの方法です。

バプテスマがいかに大切か
それは主イエス・キリストの死、埋葬、そして復活という人間の歴史のなかで最も偉大な行いとの合一です。バプテスマはあなたを救うわけではありません。救いは信仰のみから来るのです(エペソ2:8-9)。あなたの罪は、主イエス・キリストを救い主として受け入れた瞬間取り除かれるのです。しかしバプテスマは、これまでの暮らしから新たな命を得た暮らしへの経過に対する個人的な証しであり、内面的な確証なのです。

幼児洗礼とはどのようなものでしょうか
まず始めに、信仰は常にバプテスマの必要条件です。ふたたび注目してほしいのですが、マタイの福音書28:19-20におけるグレイトコミッション「それゆれ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、精霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」使徒の働き2:38ではこのように伝えています。「そこでペテロは彼らに伝えた。悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」使徒の働き2:41は次のように伝えています。「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。」

使徒の働きにおけるほかの聖句は、とりわけ要点がはっきりとしています。
使徒の働き8:12
「しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。」

バプテスマよりも信仰が先立つことが明確に述べられています。実際、この場合バプテスマは先立つ信仰がなければ意味を持ちません。それはバプテスマに意味を持たせる、バプテスマを受けた者の個人的な信仰です。個人的な信仰なくして、バプテスマはまったく意味をなさないものとなります。

ふたつめに、新約聖書において幼児洗礼を授けた例はありません。このことは多くの人々が驚きますが、まったく真実です。新約聖書のいずれにも、幼児洗礼を行ったという記述は出てきません。どのような環境においても、誰かが、どこかで幼児洗礼をおこなったという例はひとつも出てきません。

バプテスマに関するほかの質問への簡単な回答

バプテスマを受けるには子供たちがどれくらい成長している必要があるでしょうか
主イエス・キリストを救い主として受け入れるという告白を、自分の考えで言えるくらいに成長しているべきです。クリスチャン・ホームで育った子供たちは、4歳から5歳で信仰の表明を行う場合もあります。これは一般的な子供たちにくらべてずっと早い時期での表明となります。幼い子供たちの一部には、福音やバプテスマの意味を真に理解するものもいますが、また別の子供たちはさらに数年を要する子たちもいます。いずれにせよ、両親が最終的な判断をすべきです。

バプテスマをいつ受けるべきでしょうか
バプテスマが主イエス・キリストとの合一を象徴するものであるとはっきり理解できしだい、またこの命にしたがうべきという個人的な願いがあれば、受けるべきです。注意していただきたいのですが、バプテスマは霊的な成熟の証しではなく、主イエス・キリストとの個人的な合一の表明といえるのです。

幼児洗礼を受けた者は主イエス・キリストを信じる者として再びバプテスマを受けるべきでしょうか
幼児洗礼を受けた者は誰でも、主イエス・キリストを信じる者としてバプテスマを受ける必要があります。これは弟子としての本分、また主イエス・キリストを救い主として受け入れた新しい暮らしの能動的な部分です。新約聖書においては、主イエス・キリストへの信仰、そしてバプテスマという順序となっています。したがって、幼児洗礼を受けた者は誰でも、主イエス・キリストを信じる者として再びバプテスマを受ける必要があります。これは主イエス・キリストへの個人的な信仰を公に表明することなのです。

バプテスマを受ける者に水を用いた者は、主イエス・キリストを信じる者として救いを受け入れる日の前、また後で何をなすべきでしょうか
バプテスマを受ける者に水を用いた者は誰でも、バプテスマを受けていません。水を振りかけるという言葉は、主の御言葉の反対であり、バプテスマではありません。ギリシャ語の翻訳である“baptize”は、ギリシャ語の動詞“baptizo”に由来します。今日もっとも普遍的な専門辞書によれば、その主な意味は「浸ける、浸け入れる。浸す」です。その次の意味は「影響下におく」となります。Merril Tenney博士は「洗濯のようなものが示唆される一節のような、ある一定の例外を斟酌したのち、語源上の意味の示すところでは、バプテスマは本来水に浸けるかたちで行われるものでした」(基本的なクリスチャンの教理;257頁)。したがって、バプテスマを受ける者に水を用いた者は、主イエス・キリストを信じる者としてバプテスマを受けねばなりません。

バプテスマを望む子供を持つ者として、なにを準備すべきでしょうか
子供たちに違いをもたらすために出来る、いくつかの重要なカギがあります。1)主イエス・キリストと子供たちの個人的なつながりについて話しかけてあげることです。2)子供たちにバプテスマを受けるようプレッシャーを与えないことです。3)バプテスマに立ち会うよう、子供たちを連れていくことです。4)牧師にお願いして、バプテスマとは一体なんであるかを説明してもらうようにお願いすることです。5)子供たちがバプテスマを受けたいという理由を説明させることです。6)バプテスマに立ち会うように子供たちの友人や知り合いを誘うことです。7)何年も記念になるような、お祝い的な行事や機会にすることです。

洗礼式では実際なにがおこなわれるのでしょうか
洗礼式は通例非公式ですが、以下の事柄が含まれます。
洗礼式は簡単な祈りで始まり、そのときに相応しい讃美歌を歌い、バプテスマについての説明が行われます。のち、牧師と、バプテスマを受ける者は、集会に参加した全員に対するかたちで水の中に立ちます。バプテスマを受ける者は主イエス・キリストへの信仰、そしてバプテスマ受ける意思を確かめます。ここで、望みがあれば集会に集った人達の前で証しを延べることもできます。このあと、バプテスマの式辞が述べられ、バプテスマを受ける者が水につけられます。

最終的にバプテスマを受け、全員でまた讃美歌を歌います。そして感謝の祈りを持ち、洗礼式は終了します。

バプテスマを受ける際には友人や家族を呼ぶべきでしょうか
もちろん、友人や家族を呼ぶべきです。このようなときにこそ呼ぶべきです。よく覚えていてほしいのですが、バプテスマは主イエス・キリストの信仰を公に証しするものです。またバプテスマは、主イエス・キリストの死、埋葬、そして復活の再現でもあるのです。バプテスマは、言葉によらず福音を宣べ伝える機会となります。バプテスマをお祝いの、喜びに満ちた機会にして、主があなたの証しを、友人が主イエス・キリストを救い主として受け入れるために用いてくださるよう祈りましょう。

バプテスマはどのように執り行われるのでしょうか
バプテスマを受けたいという場合は、ミッショナリーの牧師に申し出てください。このとても大切な儀礼の日時が取りきめられます。

バプテスマに際してなにを持っていくべきでしょうか
服の着替え、バプテスマで濡れた衣服などを収めるケース、そして化粧品や身だしなみをする道具を必要に応じて持参します。タオルをお貸ししますが、バプテスマがいくつか重なった場合は皆さんに十分行きわたらない場合があります。もし長髪であったり、一枚以上のタオルを必要とする場合は、ご自分のタオルをお持ちください。



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水的洗礼